今夜はセンサの位置の変更と調整。思ったほど光センサが機能してくれない。でも昨日急遽貼った鏡面ボードのおかげで、向かいのビルの灯りでも十分ではある。ともあれ、室内の準備はようやく整ったから、三日目にしてようやく告知ができる。
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社会科学の方法論的議論をパラパラめくると、「実証主義」と「解釈主義」という類型で整理するのがほとんどだ、ということに気づく。前者は社会を実体的なものとし、後者は社会を人々の相互性の中で構成されたものとみなす。前者は社会を静態的に捉え、後者は動態的に捉える…云々。しかし、過去-現在-未来という歴史性については対立しないことが多い。双方ともに社会(あるいはその構成要素としての人間)を対象としており、実証主義に批判的な解釈主義者も、社会の歴史性については案外あっさり認めるのだ。「社会は動態的であり、われわれの認識の限界をはるかに超えるものだとしても、社会的事実の明証性については、過去の出来事と未来の出来事の間で違いはあるのではないか」というように。
「わからない」ということ(=認識の限界を超える状況)を方法論の領域だけで議論するかぎり、わかっていないのは分析対象ではなく分析家の側、ということになる。しかし僕らの日々をふりかえればあきらかだが、分析家がわかっていないのと同じように、分析対象である僕ら自身も、よく「わからない」ままに日常を営んでいる。社会的事実の明証性について、過去と未来とでは「程度が異なる」とも「同じだ」ともいえてしまう。その意味で社会的事実の明証性は不明だ。「わからない」ということは方法論的限界の問題ではなく、それ自体が分析の主題なのだ。方法論の議論は、「わからない」ということと「営み」をどのように関係づけるのか、という点から類型化をやり直さねばならない。
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さて、三日目にして、306号室の話に。奥野ビル(旧・銀座アパート)は80年近い歴史をもつビルだが、その306号室では長らく、竣工後間もなく入居した女性が美容室を営んでいた。この女性は昭和60年代に廃業し、その後306号室は生活の拠点となった。女性は2009年1月に100歳を迎え直後に逝去された。僕らはその年の春にここを借りこのプロジェクト(「銀座奥野ビル306号室プロジェクト」)を始めた、という次第だ。
この女性は晩年、奥野ビルの最古参の住人としてちょくちょくメディアにも登場されていた。その記事も読んだ。しかし「最古参の住人」という扱いで記事化されたコトバでは、戦前からの長い営みのすべてが語られるはずもない。そこで昨年の夏には東北にお住まいの御遺族に御目にかかり、遺された写真や書類などを拝見した。そうして得られた断片的な情報をもとに、何が言えるのだろうか。前世紀中盤に生じた第二次世界大戦とやらから平成にかけての公式的な歴史や、一人の職業婦人として女性史とかいう定型化された歴史などによりかかってアウトラインを引き、そこに断片的な情報をちりばめて個人史を仕立て上げるのだろうか。あるいは、お目にかかったこともない故人の306号室での写真を持ち出し、「そこにかつてあった」と一言口ずさめばよいのだろうか。
プロジェクトのメンバーとして、僕はこの306号室の歴史の事実性を「『あった』とも『なかった』ともいえてしまう」という意味で不確定の状態でとらえたいと思う。御遺族をはじめ、生前この女性と会ったという複数の人から話を伺い、関連資料も目にした。それでもなお、この女性が人生の大半を過ごした306号室の歴史の事実性を留保したい。それはこの306号室の歴史を「かつてあった未来・いまだ来らざる過去」に開くためである。かといって、並列される複数の定型化された歴史で記述する、ということでもない。断片的な情報は、互いを自らの準拠点として引き寄せあい、循環参照の関係を築こうとする。それによって事実化する。そのメカニズムはとても大事だ。なぜなら、僕らの認識はこの循環参照の中で錯覚させられるのだが、実際には、僕らの認識がその「わからなさ」を解消せんとして循環的な関係の形成を促しているのだから。だから、複数の文脈で306号室をとらえよう、というのはあまりに粗野だ。
今回の企画は、断片的な情報を「三つの平面」として並べそれらに循環参照的な関係の形成を許しつつも、ある契機差し込むことで、その関係が完全には閉じきれない事態をデザインしてみよう、という実験である。
それではまた明日。