「三つの平面による構成」 何日目?・・・最終日(比留間雅人) 

もはや日数の感覚がわからなくなってきた。ま、よいことなんだろう。
先日、メンバーのY氏が306号室で撮影。亡くなった父君のコートがモチーフ。O氏とk氏が合流し懇談。「記憶」のことを再び考える。
Y氏の撮影に立ち会って思ったが、状況を構成することの大半は、設計図に沿った作業より、現場での即興的なブリコラージュだ。今回の企画も結果的にはそうなったが、まだ設計図にこだわっていたと実感。いや、それはそれでよいんだけど、いずれ企画したりプロデュースする機会があれば、もっと即興的に楽しみたい。
翌日の朝、出社前に挨拶状の掲示に使っているフォトフレームの修理。
昨日は最終金曜日ということで、メンバー数名でミーティング。ミーティングといっても放談会ではある。作家や写真家やデザイナもいれば、ディレクターもいるし、研究者もいる。僕は勤め人だ。年代もさまざま。費用は等分に負担し、いいたいことをいう。これは306号室がきっかけとなって生まれたご縁だ。前住人の生に感謝。
今日は最終日。昼から会場入り。扉通気口から見えないところに隠れてPCをたたいている。休日返上で企画書をまとめている営業から、すぐにメールがくるんだろう。
奥野ビルの隣地が大規模な工事をしている。現場の騒音を背景に、ビル内を行きかう人の足音が聞こえる。
午後三時過ぎ、メンバーのH氏が来てくれる。1時間以上雑談。
18時過ぎから撤収作業へ。次の企画担当者である森谷さんの設営がはじまった。
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ここ数日バタバタしていた仕事は複数あるが、共通しているのは「評価」の導入という問題だ。「評価」それ自体は手段(戦術)だ。したがって、目標や戦略と循環参照の関係にある。そもそも何のために「評価」を導入するのか…規定演技なのか?評価によって自分たちの活動を定量的に評価してPRしたいのか、純粋に今後の課題を発見したいのか?評価活動そのものをパフォーマンスとするか?評価して定量的に把握することが目的か、はたまた評価手法の開発を目的としたケーススタディか?規定演技だとしても、そうした規制的アプローチの限界を指摘するためにシニカルに演じるということもある…戦術である以上、プロジェクト全体の「目標」やそのための「戦略」に規定されるはずだ。しかし「評価」には技術的な限界もあるし、それ以上に、「評価」そのものが、特定の価値観に基づく認識のフレームを一定の強制力をもって当事者に押しつける。「評価」は単なる戦術でもあるが、それが「目標」や「戦略」を遡行して規定する。「評価」は目標や戦略と循環参照の関係にあるのだ。
たちが悪いのは、「評価」が性質上、評価対象(何らかの活動)を実体化する傾向にある、ということだ。「評価」によって実体的で現実的なものと誤認された活動を、循環参照の外部にある準拠点としてさらに誤認することで、循環参照を解消し安心して体系化できるように思えてしまう。組織の意思決定は常に時間的制約があるから、積極的に誤認しようという傾向は強い。
これがすべての問題の起点である。「評価」は、現実・実体・真理を媒介するものという、明らかに過剰な機能を担わされることになる。
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お気づきのように、このブログでの僕の記事は、同じ話をしつこく反復している。
反復されている話は、循環の無限とその外部としての超越性についてである。
であるなら、同じ話題を反復しているこのブログに対する「外部としての超越性」とは何だろう?
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…昨今の社会理論、特に組織論的な領域では、「実践」という概念がはやっている。「実践」とは、僕らの日々の営みのことで、意図や目的、分析的視点の有無に関わらず遂行される行為のことだ。わかりよいたとえとしてよく用いられるのはドアノブだ。ドアノブを回しドアが開くとき、「ドアノブ」と「ドアがあくこと」の関係をいちいち意識することはない。意識せずとも僕らはドアを開けて出入りする。実践とはこういう行為をいう。「ドアノブ」と「ドアが開くこと」の関係を意識するのはどのようなときかと言えば、ドアノブが故障しているか何かの事情でドアがあかないときだ。「実践」ではない、意図的な行為は、実践としての行為が不調に終わるとき生起する。

さて、このような「実践」という概念を前提として立てられるリサーチクエスチョンは、「僕らの日々の営みは意図に還元できるものではないにも関わらず、なぜ僕らの日常に連続性があるのか(反復する何かがあるのか)」というものだ。
「実践」概念にたつ一般的な議論では、一回一回の「実践」において、これまでの習慣的な行為の形式が意図せずに継承される、とする。習慣的な形式とは、当然、分析され体系化された形式ではなく、無意識にやってしまう「クセ」のようなものだ。
もちろん、いわゆる実証主義的な手法がとらえそこなう「生成プロセス・変化プロセス」のダイナミズムについて、「実践」概念に基づくアプローチは配慮している。生まれた瞬間から、他者や環境とのやりとりの中で行為の形式を徐々に身につけていく。当初は自分の似姿としての他人をマネして、トライアンドエラーを繰り返しながら形式を形成していく。形成の場は頭ではなく身体だ。これまでうまくいっていた行為も、状況が変われば不調に終わることもある。そうした経験を通じて、行為の形式を微修正していく。それゆえにどこか連続しつつも、状況の変化にロバストに対応する柔軟性をもつ、というわけだ。
個人の行為の連続性に関して、「実践」概念に基づくアプローチの説明はこのようなものだ。そして、連続性の起源に「他人のマネ」をおいたことで、個人の次元を離れ、よりマクロな「文化」の生成・変化についても同様の論法を適用する。晴れて「社会理論」として社会についても言及できるようになる。

なるほど、よくできた話ではあるけれど、ちょっと冷静になってみればわかるように、「連続性がある」という言明は、営みを観察する外部にたってはじめて可能になるはずだ。「なぜ連続性があるのか」という問は、実は単なる疑似問題である可能性がある。つまり、「なぜ連続性があるのか」という問は、そこに連続性を認めようという解釈が先にあって成立する問であって、問に対する答を記述することで、連続性が行為遂行的に事実化される。連続性がなぜありえるのかといえば、それは「連続性はなぜあるのか」という問とそれに対する答という「やり取り」(行為)があるからだ。

となると、僕らの営みそのものは、連続性があるかないのか、どちらともいえないということになる。

さて、循環参照も生と死の循環も、それを循環と見なす視点があって初めて可能になる表現だ。意味においても(循環するということは何かが維持されるということ)、前提としている視点においても(「実践」や「循環」の外部の視点)、循環するモノ・コトは、「連続しそうに思えないのに連続している実践」と同じことといえる。「実践」の連続性が、それそのものに対する問と答によって構成されるように、何かの「循環」とは、事実として循環しているかいなかと全く無縁のところで、それを「循環している」と見なす視線によって成立している。地母神を地母神として名指すためには、自らが太陽神にならなければならない。でも、自分で自分のことを太陽神だなんていえない。だから、改めて「太陽神」を構成しなければならない。「実践」や循環においていえば、それこそが「答」が担う機能だろう。

こう考えると、循環の外部には二種類ある、ということになる。「循環を構成するための外部(答や太陽神)」という外部と、その両者の補完関係そのものの外部だ。後者は、循環の矛盾やその外部の超越性があるのかないのか、決定できないという立場をとる。もし本当に僕らの日々の営みの次元にたつならば、連続性があるかないかは決められないはずだ。
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さて、企画を撤収した今、306号室での試みの設計図のみ記録のために記しておきたい。この企画は三つの平面が2セット組み合わされている。
(1)306号室の通気口から切り取られる景色/写真/「スダ美容室」の挨拶状
(2)306号室という名前/DM(このブログへのQRコードと、FEB.31.2009もしくはJAN.32.2009と日付印が押されている)/このブログ
この2つのセットは、306号室で交錯する。