西洋館物語「晩香廬」、「青淵文庫」上映会の報告(西松)

西洋館物語「晩香廬」、「青淵文庫」上映会の報告(西松)

ビデオは銀行や鉄道など五百を超える会社を設立、教育や病院等の社会事業に尽力した実業家・渋沢栄一の業績と生涯を織り交ぜ、彼の喜寿、傘寿の祝いとして飛鳥山の自邸「愛依村荘」に建てられた「晩香廬」と「青淵文庫」を紹介している。晩香廬は、数寄屋風洋館で、赤色塩焼き瓦の屋根に煙突、軒壁はハーフ・ティンバー、玄関には氷裂型の鉄平石・・鉄筋コンクリートの青淵文庫は、直方体を並べた端正な外観、窓のまわりの壁には柏の図柄の装飾タイル、欄間のステンドグラスは、左右に昇り竜と下り竜を配し、寿の文字・・・いずれも隅々まで細かな工夫や配慮が見える珠玉の作品。空襲の戦火を免れたことは幸いだった。
渋沢は、民間外交にも力を尽くし、グラント将軍を始め多くの外国人を自邸に招いているが、インドの詩聖タゴールを招いた時の貴重な映像があった。タゴールを案内する仕草にどこか人間的な魅力が漂う。渋沢はまた、孔子の論語に学んだ道徳経済合一説を唱えた人物として有名で、その肉声が残されていた。落ち着いたしっかりとした口調。文字では伝わらないものを伝えるこうした資料は、過去を総合的に理解するため、ますます重要になるだろう。

二つの建物を設計した建築家の田辺淳吉は、時間の制約のため、詳しく紹介されなかったので、調べてみた。2007年発行のINAX REPORT No170に田辺淳吉が特集され、清水建設研究所の松波秀子氏が記事を書いていた。それによると田辺淳吉は、明治12年、東京の本郷に元福山藩士で宮内庁の役人の家に生まれた。父は書画をよくし、兄は画家であった。明治36年に東京帝国大学工学部建築家を卒業し、清水組に入店。明治42年には渋沢栄一を団長とする実業団旅行に参加後、単独で北米と欧州各地を歴訪した。そして、清水組の技師長として活躍した後、大正15年に47歳で亡くなった。
代表作にゼセッション様式の「大阪瓦斯」、鉄筋コンクリートの「澁澤倉庫」など。現存する作品としては、高岡共立銀行(現・富山銀行本店)と世田谷から深谷に移築された誠之堂(第一銀行の保養施設に建てられた渋沢栄一の喜寿を祝う記念館)がある。晩香廬は当時の建築家に「和洋の様式を渾然一和した手腕は羨望に堪えない」「総ての部分が周到なる用意を以て意匠せられている」と絶賛されていた。
松波氏は、「晩香廬で特筆すべきは、建築と工芸の提携という新しい試み」がなされたことだという。建物に合わせて、茶器、花器などの備品を、藤井達吉、富本憲吉など当時新進気鋭の工芸家たちに建物の概要を説明し、制作を依頼した。「誠之堂における田園趣味の英国農家風」と合わせてみると「田辺の目指したものは、日本におけるアーツ・アンド・クラフツ建築であった」と記す。
特集に田辺の卒業設計図が掲載されていた。2階建ての美しい洋館で壁や窓、屋根のすべてに細かな装飾が施され、おとぎの国の建物のようだ。それを見て思った。田辺はまだ、これからという47歳で亡くなったが、自分の本領を存分に発揮して、夢を実現したのだと。