黒多弘文展(西松)

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部屋に入ると右手奥の壁に、ここが美容室であったことを特徴づける丸い鏡が三つ並んでいる。反対の待合室の壁は、壁紙が剥がれた状態になっており、そこから入口へ通じる壁にかけて、その丸い鏡が三つ並んだ映像がプロジェクターを用いて投影されている。よく見ると映像が投影されている壁紙には周りに比べて薄くしか日焼けしていない丸い痕跡が残されており、そこに鏡があったことが想像される。入口へ通じる壁に掛けられている丸い鏡がどうやらかつて壁紙の所にあった鏡のようだ。すなわち、鏡の痕跡と今ある鏡の間に丸い三つの鏡が挟まれるよう映像が仕組まれている。しかもその三つの鏡の映像は、直接ではなく、入口にある鏡を使って撮影されているのだ。つまり、現実の鏡と鏡に映った鏡の映像と鏡の痕跡というそれぞれに位相の異なる鏡がここに並んでいるのだ。それは、じつに壮観で興味深いものだが、仕掛けは更にあった。

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映像には撮影した時刻を表示する文字も画面の下に投影されている。それを見ると昨日の展示が終わった時刻から、今日の展示が始まる時刻まで、時間を縮めて撮影がされているのがわかる。観客はこの映像によって深夜から昼過ぎまで明るさが変化する部屋の様子を味わうことができる。しかも、日によって明るさが異なり、夕方になるにつれ次第に暗くなってゆく部屋でそれを味わうことになる。位相のずれに時間のずれが加わり、それに明るさの変化が重なる。考えて見れば、刻一刻変化し、二度とは味わえない視覚体験を観客に提供しているのだ。
作家の黒多は、この作品に寄せて「絵を見ることはどういうことか 鏡を見ると鏡に映るものと見るは違う 自分の姿を見るたまさか川面に映る自らを認める態度とは違う態度で かつてそこにあった鏡の跡の上にその鏡が映していた風景を日光写真のように壁紙に焼かれる像を見る もう戻ることはできない遠い所にきてしまった 日が暮れていくが歩いてゆくしかない よく見れば道はある 見えない道標が見えてきた 絵を見るように見えてきた」と記す。
「日光写真」という言葉からは、この作品が鏡を使った科学的な法則の応用にとどまらず、作家の少年時代の記憶や郷愁と深く結びついていることを想起させる。高画質ではなく、ざらついた風合いの映像をあえて使うのも、遠い記憶へのイメージを求めてのことだろう。「絵を見ることはどういうことか」という彼の問いかけは鏡についての明晰な思索と勇気ある歩みを経て、芸術においてだけではなく、その人生観においても道を見出そうとしているかのようだ。
映像が映し出された壁面を、反対側の三つの鏡から眺めて見ると、もうひとつ架空の部屋が存在するような奇妙な感覚に襲われる。恐るべき鏡の世界ではないか。鏡は、ギリシャ神話のナルシス以来、文学・美術の分野に様々な作品を生み出しているが、今回の黒多弘文の作品は、そうした鏡の系譜に連なる特筆すべきアート作品であると思う。
最後に一言加えれば、黒多の作品はこの部屋で長年美容師として仕事を続け、100歳で亡くなった須田芳子という一人の市井の庶民の生活の痕跡から生まれたもので、美術館やギャラリーの真っ白な壁の四角の部屋、いわゆるホワイトキューブでは決して実現できない作品であることだ。そのことは、どんな塵芥に見えようとも、人間が残した痕跡や、日常生活の様々な場に、知的な企みをはらみ、感性を刺激してやまないアートの可能性が無限に広がっていることを示唆してはいまいか。

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