ブータンで見た廃屋(西松)

建物は、人が住んでいると誰それの家であり、誰々の建築であるが、人が住まなくなり、世話をする人がいなくなると、モノとしての存在感が増してくる。そんな時に「廃屋
という言葉で呼ばれるのは、少し気の毒な気がする。意味としては正しいが、モノとしての存在感が備わって、まさに建物になったのではないか。この時にこそもう少し、じっくりと見てやりたい。廃ではなく、生きた屋を。

ただ、狭くなった地球、建物はいつのまにか壊されて、更地になりまた新しく生まれ変わって家が立つというサイクルに組み込まれてゆく。そこで、建物を所有する人に偶然に不都合が生じて、人間の手が入らず長い間放置されることになった建物は幸いである。モノとしての自己を十二分に示せる時間を得、ゆくゆくは自然に帰ってゆく風化のサイクルに入ることができる。こうした建物は、現代ではきわめて珍しくなっており、存在感のみならず、希少性という新たな価値も加わるようになった。

ブータンで素晴らしい廃屋を見た。飛行場があり、2番目に大きな都市であるパロの近郊にある。首都のティンプーへ向かう途中のマイクロ・バスの中で目にし、すぐに車を止めてもらい外に飛び出した。風雨にさらされ、全体が少し丸みを帯びていたが、廃屋は堂々として凛々しかった。時刻は午後の3時過ぎ、太陽が山にかかる直前であった。少し赤みがかった斜めの光が、絶妙な光と影のコントラストを作り、廃屋を美しく輝かせていた。ブータンの伝統家屋は、土壁で1,2階を作り、その上に木造の住宅部分が組み込まれる構造となっている。保温性に富み、エネルギー消費の少ないエコ建築のモデルとされている。この廃屋は、窓や入口にまだ、木材を残しているが、大方の木の部分は、既に無くなっている。このまま、風化か進めば、やがて木は腐り、こんもりとした土の塊だけになるであろう。ただ、不安なことがひとつある。場所が街道のすぐ近くであり、まわりは水田地帯なので、やがては、廃屋にも人間の手が入り、この景観が失われてしまうことだ。そうあってほしくない、ずっとこのままであってほしいという思いが痛切に湧いてくる。

人間の幸福を最大の価値とするこの国で、もう人間には全く役に立たなくなった廃屋に、こんな思い入れするのは、あまりにも身勝手ではないか。そんな声が聞こえてきそうだ。しかしブータンへの旅で見た城郭や寺院や仏塔や住宅などの様々な伝統的文化財の中で、私が最も心惹かれたのは紛れもなくこの廃屋であった。そこで小さな声で呟いてみる。『願わくは、この廃屋が永遠の生命をまっとうせんことを。』

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