第8回西洋館物語・上映会「文化学院と軽井沢ル・ヴァン美術館」の報告(西松)

建て直される前、いつでも見られたのに見ることがなかった文化学院の校舎。
映像で見ると入口に大きなアーチ門があり、中庭を取り囲むような構造の建物だ。ドームのような構内の窓や扉の随所にアーチが使われている。西村八知氏によると設計者である西村伊作はアーチの曲線にこだわりがあり、アンチームな感じが好きだったという。1階には全面窓の美術科の教室、最上階に音楽や演劇科のため、上下2段のガラス窓のある明るい講堂がある。軽井沢ル・ヴァン美術館は関東大震災で焼失した最初の木造校舎を縮小して再現した建物で、八角形の塔を中心に配置されている。南側の建物は開口部を広く取り、テラスを通して庭から自由に出入り可能という独特の構造を持つ。
西村伊作は新宮の由緒ある大石家に生まれ、父は熱心なクリスチャンであった。7歳の時、宣教中の両親が濃尾地震で死亡したため、母方の西村家(奈良の山林地主)に引き取られ養子となる。中学を卒業後、独学で絵や建築を学んだという。後に大逆事件に連座し死刑に処せられた叔父で医師の大石誠之助が、アメリカに留学していたことから叔父を通して学んだことも大きく、二人は共同で太平洋食堂というレストランを開いている。結婚後の伊作は大勢の子どもを育てながら衣食住の様々な分野での創作や改善を試みた。家庭が教育の原点で、夕ご飯は家族一緒、自ら設計した自邸は居間を中心にしたアメリカの住宅を基本に日本の民家の開放性を加えたもので、素朴で使いやすさを旨としていた。やがて、伊作は建築事務所を開き、倉敷基督教会堂やいくつかの洋風建築を手がける。
文化学院創立のいきさつは、別荘のあった軽井沢で長女の進学について相談を受けていた時、適当な学校が見つからなかったことから自分の手で学校建設を思い立ったという。翌1921年にお茶の水に校舎が完成、与謝野寛・明子夫妻や画家の石井柏亭ら多くの芸術家・文化人が教師や講師として参加、ひとりひとりの個性を尊重する自由主義教育がモットーであった。山林地主で大金持ちであったことから出来たことでもあるが、伊作の自由主義は筋金入りだったようで戦時中、不敬罪で特高に拘束されても転向しなかった。
上映後、いくつかの疑問がわいた。伊作は独学でどのようにして西洋建築のエッセンスや技術を学んだのかということだった。伊作の展覧会を見た記憶があり、その図録(西村伊作の世界展)を調べてみると、伊作はイギリスに留学した富本憲吉から、ウィリアム・モリスや英国の建築について学び、かつ英米の建築雑誌や美術雑誌を取り寄せ吸収していたことが分かった。もうひとつ、この時代に同じように自由な気風の私学を創立した自由学園との関わりだ。自由学園の創立者・羽仁もと子は、家庭生活の合理化を説いた日本で初の女性ジャーナリストだった。羽仁吉一と結婚後、「婦人の友」を創刊、同じく1921年読者の子の家庭的な教育をめざして自由学園を創立。来日中のライトが共感し校舎の設計を引き受けた。数多の私学の中で戦時中、自由主義を貫いたのは、文化学院と自由学園のみだという。