第7回 上映会「九段会館」「日比谷公会堂」の報告 (西松)

九段会館はもと軍人会館だった。昭和天皇からの御下賜金がきっかけで会館建設が決まったという。コンペでは近代的な洋館に日本の城郭を乗せる和洋折衷・帝冠様式の小野武雄案が入選したが、実施設計は、同潤会アパートや奥野ビルを設計した川元良一が行った。ただ、東京帝国大学在学中, 川元の師であり、築地本願寺などオリエント風とも言えるユニークな建築を設計した伊藤忠太が監修役であったので、その影響が大きかったようだ。屋根には鯱鉾もあり奇妙さはぬぐえないが、東西を折衷しようとした当時の試みの中では、うまくいった作であると千葉工大の河東義之先生は解説している。昭和9年竣工したこの建物は2年後2,26事件で、戒厳司令部が置かれたことで有名になった。戦後は連合軍の宿舎として使われた後、日本遺族会に貸し出されホールやレストランを備えた九段会館となり、結婚式や各種公演、試写会などに使用された。建物をよく見ると、ロマネスク風の動物や、ボルト状の石の装飾、さらに2階鳳凰の間の天井の漆喰、ホールのアール・デコ風の空間装飾などとてもデザイン性に富んでいる。中へ入ったことがない者の眼に、映像は魅力的に思えた。
一方、日比谷公会堂は、関東大震災の復興事業の目玉に、本格的なホールを作りたいという当時の東京市長後藤新平の計画に、安田財閥の安田善次郎が、市政調査会の会館を作ることを条件にその資金を寄附して実現した。コンペの結果、早稲田大学の教授で大隈講堂の設計者佐藤功一の案が採用された。地下1階、地上6階の鉄筋コンクリート建(昭和4年竣工)だが、上に塔、外壁に付け柱がある垂直性のラインが強いネオゴシック風の建物となっている。佐藤がもっとも重視したのは、西欧的な合理性のようだ。音響効果なども舞台上で紙を切る音が最後部席でも聞こえるほど研究を重ね、人工的な石を用いた反射板や空間を工夫した。そのおかげで海外の著名な声楽家や演奏家のコンサートがここで開かれ、日本の西洋音楽普及に大きな役割を果たした。(映像で貴重なポスターなどを見られたのも嬉しい。)ただし、日比谷公会堂を最も有名にしたのは、昭和35年日本社会党委員長であった浅沼稲次郎を右翼の青年が襲った事件だった。
九段会館と日比谷公会堂、昭和初期に皇居を挟んで建てられた二つの建物は共に日本の近代の歴史と政治に深くかかわっていた。と同時に東西文化と近代文化を考える上で、貴重な類例をなしており、とりわけ興味深いものがある。