「三つの平面による構成」 四日目 (比留間雅人)  

Y氏とK氏からダメ出しを頂く。室内への視線をもう少し保持する仕掛けが必要(Y氏)、写真の見せ方が弱い(K氏)。たしかに。しかし難しい。写真はイヤラシク見せたくない一方で、室内はイヤラシクみせたい。室内の光景は最終的に扉の通気口によって切り取られ平面化される。そのためには小劇場の舞台のようなわざとらしさが必要なような気もする。とりあえず、椅子をひとつはずし、鏡ごしの映像へ視線をいざなう仕掛けを試みよう。明日は朝一から打合せが二つなので、その前に306号室に行けるか?
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藤森照信『人類と建築の歴史』によれば、地母信仰(=生死の循環という無限への畏怖)がインテリアを、太陽信仰(=生死の循環という無限をコントロールする超越性への畏怖)が柱(垂直/エクステリア)をそれぞれもたらし、建築が誕生した、という。同著は、無限・超越性のあり方の類型が「建物の構造」、それも原‐構造とでも言うべき本質に結実しているといっているのだ。「構造」とはこのように語られるべきだと思う(教育的・啓蒙的な良書とはこのような本のことを言う。世界を100人の村にたとえて読み手の想像力を著しく毀損する本には、人間一般に対する陰気な悪意しか感じられない)。 無限・超越性の表象とは、言いかえるなら記憶の様態だ。つまり建築の原‐構造は記憶と関係している、というわけだ。
さて、無限・超越性は、存在するともしないとも言えてしまうものだ。地母神は、「生と死」というままならない事態をなんとか受けとめるために、人類が超越的ななにものかとして構成した神だし、太陽神とは、農耕を始めた人類が、自然の気まぐれに左右されるままならない営みをなんとか安定したものにしようとして、超越的ななにものかとして構成した神だ。無限や超越性が実在して、それをどうにかこうにか表象・記憶できた、ということではない。表象・記憶の生成と、無限や超越性の生成は同時だ。両者の起源を強いていうなら、それは「ままならなさ」の実感ではないだろうか。
循環的な運動の無限と、それを超越する無限。たとえば、断片的な情報が互いに循環参照的な関係を構築していたして、それを超越的な視点から否定するのは間抜けだ。地母神を、同根の太陽神を持ち出して否定しているようなものだからだ。そうではなくて、「ままならなさ」からもう一度見つめなおすのが重要だ。